学問とはどういうものであろうか。学問とはその名の通り、自ら問いかけて学んでいく作業のことである。果たして、自ら問いかけて学んでいく作業のことを学問というのであろうか。
この疑問を解決する視点として、学問をする主体者を考えてみたい。なるほど、たしかに学問をする主体者は、他の誰でもない自分自身である。このことより、学問とは自ら問いかけて学んでいく作業のことである、といえるわけである。
さて次に、そうした作業を何故行うのか、という疑問がわいてくる。すなわち、学問を行う動機とはいったいどういうものであろうか。
学問を行う動機として、主に次の二つが考えられる。一つは、「わからないことを理解したい」という、知的探究心という欲求からくるもの。もう一つは、「他人を幸せにしたい」という使命感からくるもの。要するに、学問という作業を何故行うのかといえば、それは「自分のため」あるいは「他人のため」にするわけである。
さて、学問と似た作業(行為)に勉強というものがある。この勉強という行為にも、学問と同様に「自分のため」あるいは「他人のため」という動機がはたらいていると考えられる。とすると、学問と勉強とは全く同じ性質をもった行為なのであろうか。
果たして、学間と勉強は同じ性質をもった行為なのであろうか。たしかに、両者ともに同じ動機が当てはまることは事実である。しかしながら、両者において決定的に違う点が一つある。それは、動機を満たすために行う姿勢である。
例えば、我々日本人ならば、一度は次のような言葉を耳にしたり、口にしたことがあるだろう。「勉強しなさい!」と。しかし、「学問しなさい!」という言葉はどうであろう。すくなくともこの点から考えると、両者は微妙に異なる性質をもっているといえるのではないだろうか。さらに、国語大辞典によれば、勉強を「気がすすまないことを、しかたなしにする」という意味でとらえている点。一方の学問の説明にはそのようなニュアンスは一切見受けられない(A参照)。
「A」辞典の意味から検討する勉強と学問の違い
勉強…無理にでも努力して励むこと。
勉強…物事につとめ、励むこと。
このことから総合的に判断すると、勉強と学問の相違点は、自発的なのかどうかという点で区別をすることができる。つまり、学問とは、「自発的に自らの知的欲求を満たすために行う行為であったり、あるいは他人の幸福を願う使命感を達成するための行動である」ということがいえる。
さて次に、自発的に自らの知的欲求を満たすために行った行為や他人の幸福を願う使命感が、達成されたかどうかをどうやって判断するのであろうか、という疑問がわいてくる。 |
序章 学問とは自発的行為である 学問とは自己満足の世界である 学問的行為者の学問的行為 学問は必ずしも社会の役に立たないのは当然 私的空間と公的空間をつなぐ方法−論文− 序章での引用文献・参考文献 第T章 何故、日本の物価は世界と比べて高いのか(経済学) (1)はじめに (2)為替レートの変化 (3)内外価格差の現実 (4)むすび 第T章での引用文献・参考文献 第U章 何故、戦争は起こるのか(国際政治学) (1)はじめに (2)戦争の歴史 (3)経済的要因からみる戦争の出現 (4)生物学的要因からみる戦争の出現 (5)何故、戦争は起きるのか (6)経済制裁で、北朝鮮を追いつめてはいけない (7)むすび 第U章での引用文献・参考文献 第V章 何故、男は女を愛し、女は男を愛するのか(大脳生理学) (1)はじめに (2)男が女を愛し、女が男を愛する理由 (3)男と女の関係を決める要素は何か (4)男と女のつりあった関係 (5)むすび 第V章での引用文献・参考文献 終章、あとがき |